2019-05-07
育成

サッカーを通してなにを伝えられのか?

毎回、今日はこんなことをやろう、というテーマをもってトレーニングを作り、準備をして、トレーニングを行います。その流れの中で、選手たちに意識して欲しい点を気づかせる工夫をして、しつもんを投げかけ、褒めて、たまに注意して子供たちのモチベーションを高め、やる気を促し、良い練習の雰囲気を作る。うまくいっているな、というときは、子供たちは楽しそうに、そして真剣に、何よりも夢中になっている様がありありと見受けられる。

指導者として、充足された気分になる瞬間。

人数や、学年、天候にもあまり左右されることなく、俗にいう『指導力』が身に付いているように思えるときがある。 でもその時にふと思うのが、本当に子供たちは自主的に学んでいるのか?サッカーの指導者である以上、その子供たちがどこにいっても、サッカーができる土台を築いていく。また教えられるだけの知識を学ぶ、これらは最低限必要なことだと思います。

そのしつもんの答え、自分でもってないですか?

『ショウ、誘導尋問になってないか?』数年前に、恩師と仰いでいる方に言われ た一言。

『子供たちに自分の言って欲しい答えを代弁させてないか?』と。

ぎくりとしました。子供たちの気づきをもってして、学びを得る。自らの頭で考えて導き出した答えこそ、正解か不正解かは別にして、価値がある。自分が駆け出しの頃いつも『指導者は知識を教えるものじゃない、知恵を教えてあげるものだよ』と言われていたのも思い出しました。

『学ぶことをやめたら、教えることをやめなくてはいけない』というのは、自分のなかでの金言の一つですが、どんどん進化していく現代サッカーについていこうとするあまり、本質を見失っていることが多々あるように思いなおしました。一方通行の指導、上意下達式、トップダウン、そうならないように、【しつもんメンタルトレーナー】さんに学び、また他分野の教育者の方からお話を頂いたりしてきました。それでも、繰り返し質問をしたり、どこかで『聞く、問いかけたこと』それだけで満足してしまう一面があったように反芻します。

学ぶのは誰か?

先日、私の恩師と勝手に仰いでいる方の(さらに)尊敬する方とお話しする機会があり、その指導哲学の一端に触れさせてもらえました。その中に、学びの主体性という言葉がありました。

『どんなにいい言葉や教えを言ったところで、本当に『学ぶ』ことができるのは、受け手なんだ、教えられることなんて、何もない。学ぶ側の意識によってのみ、気づきがある。プロと呼ばれる選手たちに指導する場でさえそれは一緒で、一番偉いのは受け手(選手)なんだ。』

選手同士がお互いの学びを共有し合い、自然と高められるようなグループにもっていくこと。

学びの喜びを伝える

その方に勧められて最近読んだ本に、『人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学ぶことはできない』 (先生はえらい 内田 樹)

自らが発した一言には、十人十色の受け取り方があり、ある子どもによってはやる気が出る一言であっても、他の子にとっては、なんだかよくわからないということもある。もっとひどい場合には、傷ついてしまう場合もある。言い方、口調という以前にそこでの信頼関係、とくに『この人からなんか学ぼう』という関係にあるか、という事が本当に大切なんだ、と。それは同時に一人一人に合った指導者としての振る舞い、言葉掛けを身に付けることでもあり、心の琴線に触れるような一言を投げかけられる、そんな存在であれたら、と思います。

自分はイチローさんやカズさんのように、誰もがその言動に影響されるカリスマというわけではない、ただの一指導者の端くれです。だからこそ子供たちの可能性を自分の解釈できる範囲の言葉で押し込めることのないようにする。

『指導者ができることについては定義付けできないけど、やっちゃいけないことは二つある。

一つは練習などのし過ぎによるスポーツ障害。

もう一つはサッカー嫌いにさせること。

これだけはやってはいけない。指導者は子供を成長させられなくても、子供をつぶすことはできる』自戒を込めて。

最後は『ひと』なんだ

という一言は、まだまだ未熟な自分には言えません。サッカーを教えながら、なにを伝えているのか?目の前のこども一人一人から学ばせてもらう気持ちを忘れないでいたいです。

二田水晶